最近旅への思いが強くなっているのを感じる。周りを見ると、それは私だけではなく、コロナ前は高齢者の旅行がかなり目立っていたのを思い出す。そういえば旅好きとして西行法師と松尾芭蕉は特に有名だ。また旅好きな偉人も多く、坂本龍馬や「東海道五十三次」を作成した歌川広重や、また秀吉や西郷隆盛は温泉好きとしても知られている。
西行は平安時代末期から鎌倉初期の武士で、また僧侶でもあり歌人でもあった。彼は30歳頃に陸奥へ最初の長旅に出る。また50歳頃に四国を巡礼する。有名な歌は百人一首に掲載されている「嘆けとて 月やは 物を思はする かこち顔なる わが涙かな」である。(意味:嘆けといって月がもの思いをさせるのだろうか。あなたとの恋のせいなのに、月がそうさせたかのように涙が流れる)
一方の芭蕉は日本を代表する俳人である。「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」で始まる「奥の細道」を記したことでも有名である。彼が山形県の山寺で詠んだ「静かさや 岩にしみいる 蝉の声」は誰でも知っている。彼が東北から新潟、石川、福井など2400キロを弟子の曾良(そら)と一緒に約150日で旅したのは、46歳の時だ。西行にせよ、芭蕉にせよ、当時の平均寿命を超えている。今で言うと70歳を超えたおじいちゃんが歩いて旅をしていることになる。
つまり日本人の高齢者はもともと旅好きだということだ。旅には人・自然・風土・食などすべてのものが包含されている。年齢を重ねて、少し鈍ってきた感性を旅先で新たな経験をすることにより、少し取り戻し、新たなステージに行けるような気がする。今でも奥の細道のコースを旅する人も多い。
最近私の心にふつふつと起こる旅への思いは抑えがたいものがあるが、その理由の一つにもう行かないと行けなくなるという恐れがあるからだろう。若い時はいつでも行けると思っていても、ある年齢を超えた時にふと余命を考えて、今行かなくてはと思うようになる。いわゆる芭蕉の「片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず」と同じような気持ちとなり、「古人も多く旅に死せるあり」といつ死んでも良いと決心して旅に出ることになる。それは家族と共になどという価値観とは別の個人主義的な価値観である。しかし、人生自体が旅という考えを持ちにくくなった現在社会において、旅をするということの価値を再発見しても良いと思う。さあ、旅に出よう。